江戸の昔のSNS 湯島天神の石

観梅の時期が過ぎ、もうじき花見の季節がやってくる。湯島は、亀戸と並ぶ有名な天神様だ。この時期、受験生やその親で賑わいを見せる。

湯島天神 屋根 湯島天神桜

社由来によると、同社は道真公を奉り、1355年、周辺郷民の勧請に係り、後になって、江戸を切り開いた太田道灌によって、手厚く保護されたとある。家康公入府後も、文神として崇敬され、何度か大火にもあったが、諸大名や多数の民の奉献によって現在に至るという。

湯島天神には、社殿に向かい左側に、高さ130センチ、幅60センチぐらいの四角い石が今でもある。その正面には「をしふるかた」(教ふる方)裏面には「たつぬるかた」(尋ねる方)という文字が刻まれている。何でも、裏面には迷子や尋ね人を探す人が、探している人の名前・年齢・背格好・住んでいた町名などを記した紙を貼りつけ、正面には、その迷子などを見かけた人が、それの風体を記した紙を貼っていたという。つまり、この石が「情報交換」の掲示板であったのだ。

当時の江戸の庶民にとって、神社仏閣への参詣は、一大レジャーであった。月や季節によって縁日や行事があり、境内やその周辺で繰り広げられる、踊りや芝居の賑わいを、出店の食べ物をつまみながら眺めていたのだろう。おそらく、身内の手からはぐれた迷子も多かったことであろう。江戸では、特に湯島天神の巫女さんや踊り子は若くて美しいので有名だったそうだ。

また、門前には料亭や陰間茶屋が軒を連ねていたという。今で言えば、さながらAKB48とジャニーズがあわせて見られる、「ハレとケ」を併せ持った場所だった。江戸っ子も現在の若者も、そう考えると趣味思考は大きく変わらない。

不忍に、忍んで通う陰間茶屋 (江戸の川柳)

(しのばずに、しのんでかよう、かげまぢゃや)

無粋になるので、あえて解説は割愛させていただく。

湯島天神 鳥居

現在の湯島は、上野広小路や不忍の池に近い割りに、やけに静かな宅地が広がっている。

 

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